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大森文衛著「水晶ものがたり」昭和46年11月10日発行より  

ブラジル原石輸入の元祖・三浦雅登

  東京市神田区富山町にある三栄貿易商会の三浦雅登は、富山町から百メートルたらずの隣町・神田区東松下町に印判業を営んでいた西八代郡豊和村八ノ尻出身(現在・市川大門町)の遠藤房吉(号は素敬)から、甲州では水晶原石が産出不振で、極度に因まり抜いており、業者によっては一度埋めた水晶屑まで掘り出して使えるものをさがしているという話を聞いた。その時、三浦はふとブラジルの水晶を輸入したならば……と気がつき、遠藤と別れたあと、すぐ水晶輸入の手配をし、まず見本品を送ってくれるよう手を打った。
三栄貿易商会はそれまで水晶を手がけた商会ではなかった。砂糖の輸入商社である。その商社の三浦が砂糖とほおよそ飛びはなれた水晶の輸入に、すぐプラジルに着目した知識は、東京市日本橋区薬研堀の高木与兵衛商店に勤務していた前歴中に得たものである。
三浦は一ツ橋商業高等学校を卒業して間もなく、高木与兵衛商店に就職したが、同店は明治以来、仁丹と共に清涼剤で知られてきた宝丹の製薬本舗である。同店は宝丹の製薬のほかに絵画用高級顔料も製造販売していた。この顔料の原料となるものほ別名岩色具とも言う緑青、群青の類で知られる孔雀石や紫金玉のような天然石であって、それを海外から輸入していたものである。

 著者ほ水晶製品の新販路開拓のため大正六年ごろ、若狭(福井県)出身、当時東京の瑠璃職人・小林省吾の紹介によって高木与兵衛に紫水晶かんざし玉や根掛玉を売り込みに行ったことがあり、その時に高木の趣味も知ることが出来た。高木は顔料原石のほかにブラジルからトルマリン、ドイツからクリソプラスなど輸入し、趣味を兼ねた内々の商売もしていた。
三浦雅登が遠藤から甲府の水晶事情を聞いて直ちにブラジルに手を打てたのほ、三浦が高木方にいた前歴中に、顔料その他の天然石輸入のルートを知っていたからである。
三栄貿易商会は、もともと三浦の義兄に当たる吉海其の経営による砂糖輸入を本業としていたものであったが、水晶輸入の始祖となったのほ、こうした三浦の前歴知識の機転が産んだものであった。

大正七年九月、五百ポンドを契約

 三浦雅登ほ見本が到着すると、最初、甲府の原石難の話をした遠藤房吉を通じて見本を西八代郡市川大門町の水晶加工業・丹沢政蔵方へ送り商談の手づるを求めた。ところが遠藤は同時に自分の懇意の取引先、原石仲買人であった甲府市桜町一丁目千野又次郎へも連絡したので、千野は同業の前島四五六と相談のうえ、連れ立って上京、遠藤の紹介で三栄貿易商会をたずねた。三浦との取り引き上の説明を聞いているうちに、すでに見本が市川大門町の丹沢方へ送られてあることを知った二人は、内心驚き、後手へ廻わっては不利と三浦が示した取引条件をそのままのんで仮契約を結び、本契約は見本品を丹沢方で見てから再度上京して結ぶ約束をした。甲府へ帰った二人は資金関係と多少の取り引きの不安もあって有力な仲間を加えることを考え、著者のもとに話を持ち込んで来た。著者はこの当時甲斐物産商会の支配人格の立場で営業を切り盛りしていたので、渇望の原石であり、これに参加、甲斐物産商会として共同輸入の一人となった。
共同出資の割当は、甲斐物産商会一口半、千野又次郎一口、前島四五六一口、あとから加わった東八代郡一宮村出身、甲府市柳町の篆刻師・土屋勝次半口、というととに決まり、大正七年九月中旬、次のように本契約が結ばれた。

数      量
五百ポンド (二二六キロ強)
価      格
一ポンド 五円五十銭、総額二千七百五拾円
保  証  金
二割
引 き 渡 し
大正七年十一月中に三栄貿易商会店頭でする
代 金 支 払 い
現品引き渡しと同時

こうしてブラジル原石輸入の第一歩がふみ出されたわけである。

甲府へブラジル原石初登場

 ところが、実際にその原石が横浜港から甲府へ初めて姿を現わしたのほ翌八年三月であった。予定より遅れた原因は、横浜港の荷揚げ通関に際して手続き上に手違いがあって、荷物が保税倉庫入りしたためであった。
この水晶原石は一個二百グラムから三百グラムくらいの大きさで、薄赤色と薄墨色の焼け落ち肌の隋円形(水晶生成の「窯」の中でトツコから落ちた水晶を焼け落ちという)ものが大部分で、六方結晶のものは小量であったが、すべて内部は透明度百パーセントというものばかりであった。いままで県内産の水晶を見ていた目には、 これで天然石かと思うほどの良質のものばかりである。
千野、土屋、それに著者の三人ほ眼を輝かせて、これを引き取った。共同輸入契約者の一人であった前島は、この取り引き完了の二週間ほど前に急死したので、その持ち分は、甲斐物産商会が引き継いだが、この最初のブラジ原石入手者三人が眼を輝かせたと同じように、その後、この話の伝播は早く、原石を見にきた甲府の業者らはみな眼を見はって石に見とれた。
一ポンド五円五十銭のこの水晶原石は、甲州産の良質もので一ポンド七、八円していたのに比べ安いし、それに甲州産より良質であり、たちまち倍額以上に評価された。久しく原石に飢えていた業界にとっては、良質であり、しかも無尽蔵にあるという話ほ、旱天に慈雨が降ったような騒ぎであった。それで甲府の有力な業者は競って三栄貿易商会へ振り引きの申し込みを行なった。
三栄貿易商会は、この申し込みの殺到で、業界の正確な情報をつかみ得て、先行きの見込み十分と見て、契約輸入の方針を捨てて見込み輸入に踏み切り、自由取り引きの方針で、八年八月に、第二回の輸入を行ない、その後も引き続いて輸入するようになった。
取り引きは初めのうちは、東京へ業者が上京して、倉庫で現品を一応下見したあとで価格の折衝にはいる方法をとっていたが、十人あまりの業者が集団で一括取り引きする形が、数回重ねられるうちに、水晶業者独得の品質鑑定の点で、いろいろ値引きの駆け引きをすることが根が正直者の三浦にはこたえたようである。やがて直接折衝は避けて、三栄貿易商会の輸入原石はすべて遠藤房吉に販売が任かせられ、取り引きも甲府で行われるように変わった。
この三栄貿易商会のブラジル水晶輸入がきっかけとなって、大正八年から九年と、急速にブラジル水晶輸入商社も多くなり、別項のように原石株式会社篠原商会を始め、甲府の業者自らも直輸入を計画し、甲府水晶原石協会を設立するなど活発となった。
このような状態の中で、三栄貿易商会も昭和十年までは水晶輸入を継続していたが、同年の中ごろ東京市四ッ谷三光町に営業所を移転した時を最後に、歯科医療資材の輸出業に転業して、満州、支那、上海、東南アジア方面との貿易に従事していた三浦雅登ほ、昭和二十八年六十五歳で死去した。水晶界にとっては玉屋弥助についで第二の恩人というべきであろう。

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